<南風>人は見たいように見る


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ロシアのウクライナ侵略で、心を痛めている人は多いのではないか。直接的に戦争を知らない私たち世代は、遠い国で始まった争いに、感情を押し殺しがちである。コロナ禍で、日々の暮らしをこなすため、自分の心や誰かを守るため、何が正しくて、何が間違っているか考える間もないくらい、必死に生きているのではないか。

 いつの時代も争いが起きる時、人は自分が正しいと感じている。自分を愛し、自分は価値ある存在だと感じられることは大切なことである。会社でも国家でも、自信と誇りを持つことは良いことであり、健康的な自己愛は、自分だけでなく、周囲の価値も高めるものである。自分(自分の会社や生まれた国)を愛し、そして他の人(会社、国家)を尊重することにつながる。

 ところが、不健康な自己愛傾向は、自分には価値があるが、周囲の人には価値がないと感じる。この自己愛傾向が強いと、相手の態度への評価がゆがみ、常識の範囲内のクレームや、許せるほどの小さな出来事も、ひどい侮辱や、とんでもない出来事と感じてしまうようだ。そのため、自分の怒りや攻撃も、正当なものだと感じてしまう。そして争いが起きてしまう。

 「人は見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じる」。昔好きだったドラマの主人公のせりふである。自分の思想が偏りそうになった時、あるいは偏ったと自覚した時、原点に立ち返るために私にとって必要な言葉である。

 人は何より「自分は中庸である。自分には正当性がある」と思い込んでいる時が一番危険である。自分の考えに批判的であることは、労力を使うが、それ以上に重要なことである。自分で気づかずに掛けた色眼鏡を外すことができてはじめて、自分を変えることができるのであり、大切な行動だと肝に銘じている。
(比嘉佳代、おきなわedu代表取締役)