<南風>「慣れ」の落とし穴


社会
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 札幌に来て1カ月が過ぎた。来たころは街中でもあちこちに残っていた雪は消え、季節は一気に進んだ。桜は散ったが多彩な花が咲き、木々は若葉を伸ばしている。沖縄と気候も生態系も異なる北の大地の春はドラマチックでさえある。

 だがそれよりも強く感じたのは空が静かなことだ。そう、いま暮らす場所にはオスプレイも軍用ジェット機も飛んで来ない。飛ぶのはカラスくらいだ。夜がこれほど静かだったのかと改めて思った。米軍機を毎日うるさいとは感じつつも、感覚は麻ひしかけていた。

 人の感覚とは「慣れる」ものだ。最後に那覇をたった日、気温は平年より低く肌寒く感じた。着いた札幌では、那覇よりも5℃以上低かったが平年より高かった。人々の多くは暖かいと感じていたようで、その装いは那覇と大差なかった。

 気温への順応のように生化学的なものもあれば、文字通り感覚的なものもある。その象徴が新型コロナの新規感染者数に対する感覚ではないだろうか。

 一昨年夏の沖縄では百人の感染でも恐怖におののいていた。だが昨今は千人でも「減った」と言う。もちろんワクチン接種の普及や医療体制の拡充など、多くの人の努力による成果ではある。ただ、感染者数に対する人の感覚は確実に変化した。害が明瞭なコロナでさえそうなのに、地球温暖化に対してはどうだろう。

 気温が産業革命以前より1℃上がったとは言え、札幌と那覇、冬と夏、朝と昼の気温差はもっと大きい。人為的な温暖化は歴史的な激変なのだが、人の感覚の慣れや順応の方がそれより早いのかもしれない。

 何年か前の猛暑や集中豪雨の記憶が薄れるよりも早く、気候の変化が日常になり、気付いたら自身が「ゆでガエル」に、という落とし穴は避けたい。そのためにも四季の移ろいには鋭敏であり続けたいと考える。
(河原恭一、札幌管区気象台(前沖縄気象台)地球温暖化情報官)