<南風>戦禍をくぐり抜けた母


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 戦後70年の今年、県内メディアでは通年で番組が特集されています。県人口に占める70歳以上の割合は15%を切り、戦争体験を記憶し、語ることができる80歳以上となると5%ほどになっているそうで、語り部の高齢化による戦争被害の継承が懸念されています。

 今年78歳の私の母は、沖縄戦当時、小学校1年生。陸軍病院があった南風原町出身ということもあり、悲惨で、つらく、地獄のような体験をしてきた一人です。
 母は昔の人にしては珍しく、一人っ子。祖母のカミ(享年27歳)は手作りの服をこしらえたり、おしゃれな帽子をかぶせてくれたりしたそうで、母は周囲が裸足の時代にハイカラさんだったようです。ところが、あの戦争で生活が一変。連日、空から爆弾が降り、壕から壕へ逃げまどう日々。糸満喜屋武岬付近の海岸まで母子でさまよい歩いていたところ、祖母は、母をかばうようにして、赤ひげの米兵に背後から射殺されたのです。
 「おかあ、おかあって何回呼んでもピクリとも動かない。死体の山を怖いとも思わないでひたすら逃げた。戦争は人が人でなくなる…」。母は折に触れ、その体験を話してくれました。3人の子を持つ身となった私は、祖母が8歳のわが子を一人残して逝かなくてはならなかった無念さを思うと、胸が苦しくなります。
 戦後、母はおばさん達(たち)に育てられ高校まで出してもらい、父と出会い、私を含めた5人の娘に恵まれました。孫11人に囲まれ「苦労したけど、今が一番幸せよー」と、今日も私の子を学童に迎えに行ってくれる元気で明るい母です。
 母を含めた先人達の語り尽くせない苦労の上にある、この平和。戦後の焼け野が原から沖縄の発展に寄与された先人達に心から敬服するとともに、永久にこの平和が続くようにと願わずにはいられません。
(名嘉村裕子、りゅうせきビジネスサービス代表取締役社長)