<南風>三日坊主と喘息


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 僕は三日坊主の子どもでした。人生最初の習い事は書道です。小学校入学と同時に近所の書道教室に通い出し、夏休みに入るやいなや、やめました。

 2年生になり、近くの住宅でピアノを習いはじめました。庭の広い木造2階建ての家です。髪の長い女の先生でした。夏のある日、順番待ちの間にレッスン室を抜け出して庭の木に登り、セミを捕まえ戻ったところで先生に取り上げられ、逃がされました。翌週、ピアノをやめました。
 その後もそろばん、カブスカウト、野球、英会話、剣道、水泳などいろいろ興味を持って首を突っ込むのですが長続きしたためしがありません。三日坊主のお手本のような小学生でした。
 一方僕はヒミチャー(喘息(ぜんそく)持ち)でもありました。季節の変わり目やホコリっぽい場所で遊ぶと、すぐにゼーゼーして肩が上がります。学校も頻繁に休みました。運動会とか遠足とか、楽しみにしている行事前に限って発作が出ます。小学校6年間で運動会に参加できたのは2回。子ども心に不条理を感じていました。
 喘息でヤーグマイ(家こもり)している時ほど退屈なことはありません。何かを書いたり、作ったり、読んだり、聴いたり…当時は体調に合わせて退屈せずに過ごす方法をアレコレ考えるのが日課でもあり、ささやかな楽しみでもありました。
 小さい頃を振り返ると、あらためて家族の温かい眼差(まなざ)しに気づかされます。移り気な僕を咎(とが)めることなく自由にさせて、好奇心を育ててくれました。また長い間、喘息の切ない時間と向き合う中で、独自の価値観や感性が養われていたようにも感じます。
 三つ子の魂百までと言います。かつての三日坊主と喘息は「負の体験」ではなく、僕のモノ作りを支える「好奇心と想像力」の源なのかもしれません。
(金城幸隆、オキネシア代表取締役社長)