<南風>その時計は「早い」のか


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 高校生ぐらいからか、何度説明を受けても理解が追いつかないことがある。それは時計に対する「早い」という言葉と感覚だ。

 例えば、現在時刻が8時だったとする。目の前の時計が指す時間は8時10分。この時計は「早い」か「遅い」か。人はきっと「その時計早いよ」と言うだろう。ただ、私にとってはこの時計は現在時刻よりも遅い時間を指す「遅い時計」なのだ。逆に7時50分を指していたら、それは「この時計早いな」と感じる。時計の秒針の進む具合に対しての「早い」と「遅い」。現在時刻に対する前後という意味での「早い」と「遅い」。これらの違いなのだと分かっていながらも、何度説明を受けても、いまだに時間がずれている時計を前にすると「この時計は早いのか? 遅いのか?」という混乱が31歳の今でも起こる。

 物事に対してその本質を理解したり、相手の求めていることを察知したり、周りの空気を読んで行動するのは得意な方だと思う。違いに対しての「理解」に関しては人とコミュニケーションを取る上で、自分自身の大きな自信にもつながっていた。そんな自信たっぷりな高校生時代にどうにも理解へと着陸しない「時間がずれた時計に対する人との感覚の違い」と直面した時、ちょうど進路選択など自分と向き合うタイミングと重なったこともあってか、自分は完璧な人間ではないなというトータル的な自己評価に落ち着いた。

 今こうして懐かしみながら書いてみて気付いたのは、私は時間がずれた時計に対して1人だけ違う言葉を言い続ける自分の感覚に対して、完全に開き直っているということ。周りと生じた少しの違いを、自分全体の理解に落とし込み、完全に受け入れて、記事のネタにまでしている。この絶対的安心感が、今日も目の前の時計を早いのか、遅いのか、分からなくさせる。
(岩倉千花、empty共同代表)