<南風>「死別神話」


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 愛する人を亡くして悲しんでいる方の気持ちを察することは難しい。慰めの声をかけたくても、考えあぐねた言葉がかえって傷つける場合も多々ある。遺族の思いとすれ違う認識を「死別神話」という。

 「悲しみは半年か1年くらいで落ち着くよ」=年数を増すにつれ深まる悲しみもあるし、そもそも期間の設定なんてない。「あまり考えないほうがいいんじゃない?」=思い出すのは辛(つら)いけれど、忘れたくもない。「怒りや罪責感は異常だ」=先に逝かれた怒りや、生前のさまざまな後悔が呼び起こされるのは、当然のこと。「薬物やアルコールで紛らわすことができる」=一時的かつ不健全。「元気そうなので大丈夫ね」=見た目と心のうちは全く違う。そうそう悲しんでばかりいるように見られたくなくて無理しているのに―。これらの声かけでは、ただ素直に悲しむことさえ否定されてしまうため、さらに孤独感が深まってしまう。
 不本意な状況や理不尽さを感じるとき、私たちの心はその意味を求める。ところが周りは「故人はあなたに~してほしかったのよ」「先に逝ったのは、~だったからなのね」など、実際の故人との関係や故人の考えとはまるで違うことを臆測したり、意味付けをしてきたりする。全身全霊で激しく抵抗している死別を、そう簡単に片付けられてはたまらない。当人が納得できないことを強要されても、再び傷つくだけだ。
 ではどうしたらいいのだろう。できるだけゆっくりと、悲しむ気持ちに寄り添いたい。忘れられなければ(忘れられるものではないし)、忘れなくていい。むしろ思い出す機会を設け、故人を偲(しの)びあいたい。それがお互いにとっても癒やしの時間となり、その時間を経てこそ、遺(のこ)された者があらためて生きる力を養うのだから。
(関谷綾子、グリーフワークおきなわ)