<南風>幻の「イキマ島」


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 手元に赤茶けた古い文献がある。その付図に「イキマ島」という島がある。現在の宮古島のおよそ30キロ南に島が在ったという地図なのである。そのことについて、40年以上前から疑問に思っていたが、深く追究してこなかった。しかしこの論文の著者が一目置かれた学者であり、再考すべきと考えた。

 著者は賀田貞一、嘉永3年山口県で生まれ大正4年に没した地質・鉱山学の専門家。特に北海道の開拓発展に功績があり、国内外で多くの研鑽(けんさん)を積んだ方である。驚いたことには彼の直接の師が当時日本に招聘(しょうへい)されたドイツの著名な地質学者ライマンである。
 賀田は明治18年、八重山炭山の坑長として沖縄赴任のおり「沖縄宮古八重山紀行」の論文を著した。論文は、沖縄の地層名を最初に提示した重要な文献で、沖縄の地質について記述する場合、この論文を避けることはできない。
 賀田論文の付図には「東京地学協会、日本沖縄宮古八重山諸島地質見取図、明治十九年二月、縮尺七十三万六千分之一」という記述がある。地図には明瞭に「イキマ島」が描かれている。宮古の下地島ほどの大きさだ。現在の国土地理院の地形図や、海上保安庁刊行の海底地形図ではその痕跡すら確認できない。
 宮古を調査中のある地質学者から、柳田国男の「海南小記」(大正14年)の宮古の地図にも「イキマ島」が存在することを聞いた。しかし江戸時代の国絵図には記載はない。一体、賀田氏や柳田氏は当時の何をもとにこの地図を作成したのだろうか。島は存在したが極めて短時間に千メートルの海底に陥没したのだろうか。陥没したとすると、原因は何だろうか。島が陥没して消えたのだとすると大正時代以降のことだし、巨大地震が原因なら何らかの記録が残るはずだ。しばし記憶にとどめ追究したい。
(大城逸朗、おきなわ石の会会長)