<南風>「大学生」は言い訳か


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 先日、東京で「人魚に会える日。」の宣伝合宿があった。沖縄在住と関東在住のスタッフが一堂に集まる大イベントだ。普段は電話やメールで意見交換をしているが、やはり直接顔を見て話す方がそれぞれの思いを感じることができる。

 今回の合宿における最大のテーマは、これから公開に向けていよいよ露出を多くしていく中で重要になる本作のプロモーションの軸を決めることだった。「大学生がつくった映画」として伝えるのか、「基地問題を描いた映画」として伝えるのか。選択肢は多い。
 きちんと全体の軸を決めていないと、いくら露出を増やしてもどのような映画なのかを伝えることはできず、お客さんを劇場まで導くことは難しい。
 連日明け方まで続く話し合いの中で、スタッフから「大学生がつくった。というのは所詮(しょせん)言い訳にしかすぎない」という意見が飛び出した。僕の心にグサリと突き刺さったその言葉は確かに正しかった。僕はキャストとスタッフが汗水流して作り上げた立派な作品を目の前に、言い訳できる要素を必死に探していたのかもしれない。「大学生がつくった」ことを強調することで、多少の批判からの逃げ道をつくっていたのかもしれない。
 作品を多くの人に本気で届けるには、もう「大学生」という言葉に甘えず、興行映画として、ハリウッドの作品などとも同じ土俵で闘っていかなければならないのだ。しかしこの作品の良さには、大学生だからこそ描けた視点が含まれている。その部分はきちんと伝えたい。
 そんな話し合いを繰り返し、最終日にようやくプロモーションの軸が決まった。
 公開を控え、僕を含めたスタッフがあらためてこの作品を見つめ直した3日間。「原点に戻る」―。そんなことを実感した合宿だった。
(仲村颯悟、映画監督)