<南風>北へ追われたヤンバル


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 木々が鬱蒼(うっそう)と繁(しげ)る国頭の地域を山原(ヤンバル)と言っている。「ヤンバル」という名のついた動物や植物も多い。ということは、ヤンバルには、島々が形成されたころの状態が維持され残っているという証拠だ。恐らくハブが守ったのだろうが。

 「南部のあるところにシイの木があるが、ヤンバルと同じ地層なのか」と尋ねられたことがある。即座に否定はしたが、調べてみた。確かにシイの一種、アマミアラガシが存在したが、地層はヤンバルのものではなく、南部特有の琉球石灰岩であった。この種の木は、シイの仲間でも石灰岩を好み、本部半島には多い。問題は、かつて人に持ち込まれたものが山へ逃げだしたか、あるいは自然の名残のものかいずれかであろう。周辺の調査結果から、多分後者と推測した。
 中・南部が「ヤンバル」であった兆候は他にもある。宜野湾市や北谷町の縄文時代の遺跡からシイの実が出ていることだ。北谷町の遺跡からはオキナワウラジロガシの実が籠に入り、あく抜きを示す状態で出ている。人は移動する動物ゆえ、実を取りに行けばいい。しかし木が身近に存在したと考えたほうがよいとの結果だ。さらに、八重瀬町の港川遺跡が「ヤンバル」を一層強調している。遺跡は今から1万年以上前のもので、化石になった発掘物は猪(いのしし)をはじめ蛙(かえる)、蛇、トカゲ、鳥といずれも今のヤンバルに生息するものと同じ種類である。遺跡を詳細に調査した学者も「1万数千年前には沖縄全体がヤンバルのような森に覆われていた」という見解である。
 沖縄中・南部は、あまりにも人の手が加わり過ぎた。そして動物も森とともに北へ追いやられたと思えばよい。ヤンバルを今のような限られた地域にしてしまった張本人は、後から来たわれわれであるということを忘れてはなるまい。
(大城逸朗、おきなわ石の会会長)