<南風>漢方を始めるまで


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 卒業後は臨床医になると決めており、卒後研修は沖縄県立中部病院で受けることにした。アングロアメリカン方式という研修制度は救急室を中心に各科の医師が24時間体制で勤務する。1年目、2年目の研修医と各科の指導医がチームを組み、2年目の者が1年目の者を現場で直接指導するため実戦力を養うのに優れ、あらゆる重症例に対応できた。

 この制度は急患のたらい回しが問題になっていた本土からの評価も高く、中部病院で研修できることにひそかな誇りを持っていた。優秀なスタッフと意欲あふれる研修医の力で急患が救われる現場に身を置き、西洋医学の素晴らしさを実感できた。しかし、そんな中でも訳のわからない痛みの患者さんに適切な治療ができなかったこと、下痢が止まらずに亡くなられた方、抗生物質が効かない肺炎、慢性前立腺炎など、困った症例も記憶に残った。
 研修後の1980年から八重山病院に勤務し、2、3年たつと地元の方から少しは頼りにされるようになった。漢方薬の保険適用は76年で、82年頃には漢方薬メーカーの情報担当者が八重山病院にも顔を出し、病院でも漢方の勉強会が始まった。
 私は外科が多忙で勉強会には参加できなかったが、ある日「瘀血(おけつ)研究」という漢方研究会誌が手元に届いた。代表は私が大学時代、広島で訪ねた小川新先生であった。そこで学会の帰途、小川外科で診療を見せていただいた。ほとんどが難病の患者さんで、現代医学で治療がうまくいかない方々であった。針灸、吸い玉などの治療後に漢方薬が処方された。針の打ち方を見覚え、漢方の参考書について教えていただいた。
 西洋医学で出来る事は徹底的にやり、外科医としてしっかりやっていると中部病院の先生方に認められるように意識しながら漢方の勉強を始めたのだった。
(仲原靖夫、仲原漢方クリニック院長)