<南風>漢方習得で那覇へ


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 漢方の独学は難渋を極めた。漢方医学書の文字は読めても、実際の臨床での意味が分からないのである。例えば風邪の場合、症状の組み合わせから病気の進み具合を評価し、風邪の種類を決めることで処方が決まる。そのためには症状や脈など、西洋医学とは全く違う種類の臨床情報を集めなければならない。漢方の病気の見方に慣れ、センスを磨くしかなかった。

 学会のついでに広島の小川外科を訪ね質問をするのだが、圧倒的な臨床経験の不足を痛感した。漢方の古典『傷寒論』について「輪郭が分かるのにどれくらいかかりますか」と先生に尋ねたところ、「10年はかかるな」と事も無げに言われた。
 昭和59(1984)年ごろ那覇で、元東洋医学会会長・寺師睦宗先生による月1回の漢方古典医学講座が始まった。そのころ外科は、医師3人の24時間体制。日曜日も月1回は当直、非番でも緊急手術が多く、非常に多忙だった。さらに月1回は漢方の勉強会に出掛ける。「外科だけでも忙しいのに、あえて漢方を始めなくてもいいのでは」と言われることもあったが、漢方は必ず習得すると決めていたので、迷いはなかった。
 勉強会のたびに石垣から那覇へ出る負担を考え、職場を那覇に移すことを具体的に考えるようになった。中部病院の先輩方からは、地元出身の私が頑張っていることへの期待が大きいこともあり、石垣を離れるには大きな葛藤があった。それでも漢方への思いが抑えがたく、ついに那覇に出た。
 那覇では、公立病院では漢方を通常の診療として簡単に認めてもらえないだろうと考え、漢方診療ができそうな民間病院に就職した。昭和62(87)年のことである。そして中部病院の研修で教えられたように、〓血(おけつ)研究会や東洋医学会などで症例発表を心がけ、自分の漢方のレベルを確認し、学習の励みにした。
(仲原靖夫、仲原漢方クリニック院長)

※注:〓はヤマイダレに於の二点がニスイ