<南風>ニュージーランドの学生


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 先月、ニュージーランドにあるカンタベリー大学の招聘(しょうへい)で、日本文化を学ぶ学生に、沖縄の文化や歴史についての講義をしてきた。

 私が行う沖縄に関する講義など、文学の背景知識にとどまるのだが、先方はそれでもいいという。受講生の日本語もまだ初級なので、英語で講義してほしいとのことだった。それはつまり、英語のはずなのに、私にはまるで英語に聞こえないあのニュージーランド訛(なま)りの英語を相手にするということだ。
 ひと通り講義を終え、学生からの質問の時間。何だちゃんと通じるじゃないかと安心したのもつかの間、最後に手を挙げた男子学生が私を奈落の底に突き落とした。「沖縄…独立…すか」。辛うじて聞き取れた単語をつなげ、イチかバチか「沖縄人が日本からの独立を望んでいるかについては…」と始めてみる。うなずく学生。勘が当たったのはまさに奇跡。後で現地出身の教員に「彼のあの英語をよく理解できましたね」と讃(たた)えられたときは、当てずっぽうを恥じ入った。
 意見を求めても黙り込みがちな琉大生と異なり、あちらの学生はよく発言した。「もし日本が戦争でアメリカに勝っていたら、沖縄と日本の関係は今と違っていたと思いますか」などの質問からは、問題意識の高さがうかがえる。カンタベリー大学の授業時間は50分。琉大では90分だが、悔しいことに、50分の内容の方が濃く感じられた。
 あちらでは、授業開始・終了のチャイムは鳴らない。すべては学生の自律性に任されている。自律的学びこそが自由な学びである。琉大も「グローバルシチズン(地球市民)」の育成を目指すなら、まずはチャイムをやめてみたらどうだろうか。同時に私も、米語一辺倒の自分の英語力を反省しよう―。
 そんなことを考えながら初秋の南半球を後にした。
(喜納育江、琉球大学ジェンダー協働推進室長)