<南風>祖母へのありがとう


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 たわわに咲いた月桃の花と深緑の葉が雨に濡(ぬ)れる季節になると、16年前に亡くなった祖母を思い出す。晩年は半身不随の祖父の介護をしていたが、交際好きで亭主関白な夫に「仕えてきた」祖母の結婚生活は、初めから介護生活みたいなものだったのかもしれない。

 「たった一度ありがとうんでぃ言ちとぅらさんがやー。わんねーいちあまんかい行ちんしむしが、いったーがる憐(あわ)りすんでぃ思(うむ)てぃる生ちちょーんどー。(ただ一言、ありがとうと言ってくれたらいいのに。私はいつ死んでもいいけど、今逝ったらあんたたちが介護で苦労するから生きているよ)」とよくこぼしていた。
 祖母が「いつでも死ねる」と言い放っていたのには訳がある。戦争中、いつ死んでもおかしくないほど弱っていた祖母は、乳飲み子だった息子を亡くした。そんな母の代わりに家財道具を背負って、雨の戦場を山原まで一緒に歩いた幼い娘も、戦後、26歳の若さで病死した。「あの世」では、愛(いと)しい子どもたちが自分を待っていると考えていたのだろう。
 だが私の記憶には、祖母の悲しそうな顔は一つもない。笑っているか、怒っているかのどちらかだ。祖母を助手席に乗せて信号待ちをしていたある日、目の前の横断歩道を酩酊(めいてい)した男性がフラフラと渡っていた。祖母は「んーちぃんでー。まったち、フラー。ぃきがんちゃーや、ぃーれーからヌーンチあんしフリムンどぅないがやー(見てごらん。本当のバカだ。男は酔ったらなぜあんなにバカになるのかね)」と、誰を思ってか、そう言って笑った。
 祖母の後を追うように同じ年に亡くなった祖父は、あの世で祖母にちゃんと「ありがとう」と言っただろうか。想像を絶する深い悲しみと、心からの喜びを逞(たくま)しく生き抜いてきた沖縄「女(いなぐ)」の系譜の中に、私たちは生きている。
(喜納育江、琉球大学ジェンダー協働推進室長)