<南風>信用しないが好きではある


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 私は変化するので、私の考えを信用しないことにしています。そう決めたのは大学時代。ふと中学の頃を思い出した時でした。

 中2の1学期、車を盗んだりけんかしたりで忙しく、登校しなかったクラスメートがいました。夏休みが明けて初めて学校に来た彼は、給食当番を気の弱い男子に押し付けています。
 なぜだか無駄に正義感女子だった私は我慢できず、「切れる中学生」という言葉が流行(はや)ったことがありましたが、まさにそんな感じで彼に食ってかかりました。
 結果は大騒ぎ。でも私はずっと「正義はわれにあり」と思っていました。
 が、大学生になって、保護観察中の子の更生を手助けするサークルに属し、さまざまな事情で法に触れる行いをした子らと付き合っていると、気付いたんです。彼の視点に。休みが長かったためクラスから浮いた存在で、給食当番なんてしたこともなくて、でも強気な態度も崩せない。
 そこに話したこともない女子がすごい剣幕(けんまく)で文句を言ってくる。何なんだ。
 気付いた時は愕然(がくぜん)としました。きっと「給食、一緒に取りにいく?」と声をかけたら良かったのだと思います。
 以来、「陳腐な正義感より多角的視点」を座右の銘にしています。
 と、ここまで書いてきて何ですが、この考えもいつまで続くのか、分かりません。
 そんな変わりゆく私にとって文章を残すことは怖いことです。過去の小っ恥ずかしい思考が未来を縛るからです。
 でも諸行無常と仏陀(ぶっだ)も言っていますし、変化する自分を私は諦めています。
 ですから、どうぞ皆さまには、これから半年、「またそんなこと書いている」という程度に鼻でもほじりながら読んでくださると有り難いです。
(宜寿次政江、HIV人権ネットワーク沖縄副理事長)