<南風>自分の「常識」


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 「いちいち説明しないと分からないのか」「常識で考えてくれよ」

 ため息混じりのぼやきが、中高年以上の方から聞こえて来る。この年代の人たちは、相手の思いを推し測る、察し合うコミュニケーションを得意とする人が多い。互いに察し合うためには、同じ文化、常識を共有していることが前提だが、日本人だからといって文化や常識が同じとは限らないようだ。

 サービス業に勤務する40代の友人は、新入社員のある行動にあぜんとしたという。カウンターで、「◯◯様、こちらへどうぞ」とお客さまに声を掛けている新人を何気なしに見ると、彼はズボンのポケットに両手を突っ込んだままニコニコしていたと言う。友人は一瞬、自分の目を疑ったが、すぐに怒りが込み上げて蹴りを入れたくなったそうだ。

 別の友人から聞いた話だが、上司が部下にお茶を入れてくれないかと頼んだところ、「どうして僕が入れるんですか」と質問されたという。あっけにとられた上司は部下の顔を見る。お茶を入れるのは自分の仕事ではないと腹を立てているのか? 部下の表情から真意を探ろうとするが全く分からない。もはや2人の間のコミュニケーションは機能していない状況だ。

 これらの出来事を真正面から受け止めると、落胆や怒りの感情が発生するが、斜に見ると珍場面となりおかしい。そもそも新入社員の彼はなぜポケットに両手を入れて接客をしていたのか。上司にお茶を入れてと頼まれた部下が言った「なぜ僕が」の真意はどこにあるのか。本人に聞いてみたいものだ。

 思いもつかない行動をするのだから、きっとその理由も予想を超えると思う。常に自分の「常識」が通用するとは限らない。心の中で蹴りを入れながらでも、笑っていなす余裕を持つのも「あり」かもしれない。
(吉田文子、コミュニケーションカウンセラー)