<南風>私の原点


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 本コラムへの寄稿も今回で最後となりましたので、なぜ、原発事故問題に取組み始めたのか、私の独白としてご紹介いたします。

 今から61年前の1955(昭和30)年、森永乳業徳島工場で缶入り粉ミルクに猛毒のヒ素化合物が混入し、それを飲んだ赤ちゃんのうち1万3千余人(2014年時点)に障害が残りました。これが「森永ヒ素ミルク中毒事件」です。私が生まれた愛媛県では、同じ四国の製品ということもあり、たくさんの中毒児が出ました。

 私がまだ小学校にも上がっていない頃、時折、私の家の前を曲がりくねった体で奇声を発しながら、お母さんに連れられて歩く少年がいました。小さかった私には、その姿と奇声は異様な光景と映り、恐れすら感じたことを覚えています。その姿を目で追いながら、私の母が「あの子は森永の粉ミルクを飲んだけん、あがいに(あのように)なったんよ。うちの子は50円安かった明治の粉ミルクを飲んだけん、あがいにならんで良かったんよ」

 幼かった私に一つの疑問が持ち上がりました。同じ人間が、たまたま飲んだ粉ミルクで人生が変わって良いのか? しかも、それが自身に降り掛からなかったから良かったのか? それがいつまでも心の中にわだかまりとして残りました。

 私の原点は、この時決まった気がします。コスト削減のために使用した薬品にヒ素が混入したのが原因でした。公害問題は一企業の経済優先が引き起こすものではありません。国益を優先することにより起きるのです。国は多くの「人びと」を犠牲に強いてきました。

 こうした組織的被害に対する怒りは、原発事故や沖縄の新基地建設問題にも共通しています。この矛盾を多くの方々と共有することが大切だという思いが、今につながっているのです。

(木村真三、放射線衛生学者)

※休刊日の19日に掲載できなかった「南風」を掲載します。