<南風>強運


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 昭和10年生まれの父と、昭和11年生まれの母の話。

 父はサイパンで生まれポンペイで過ごし、母は沖縄で生まれパラオで過ごした。戦前の沖縄は大不況で多くの人々が職を求めて、日本統治下だったパラオやサイパンに移り住んだ。そんな平和な島々もやがて戦禍に巻き込まれることとなった。

 …私の父一家は攻撃を逃れるために沖縄行きの船に乗ったのだが、その船が米軍の空襲にあった。1944年のトラック空襲である。9歳だった父は沈みゆく船をしり目に、泳いで近くの島に辿(たど)り着いた。一人で数日間さまよい、何とか母(私の祖母)との再会を果たした。その後別の船に乗り込み沖縄へ。沖縄戦も激しさを増していた。

 一方、母は生まれてすぐに、両親とパラオに行き、そこで弟が3人生まれた。家畜を飼い農業を営んでいたが、パラオも戦場と化し、父(祖父)も戦争に行き、後に戦死した。防空壕で小さな弟が泣き出した際、中にいた兵隊さんに「うるさいから出ていけ!」と追い出されたこともあった。空襲の中、弾に当たって死んだ方がマシだと思い歩いても、近くに爆弾が落ちると無意識に身を守ろうと体を伏せていた。生きていたいと思う自分の気持ちに気がついたという。山の中を逃げ回る生活を余儀なくされ、木の実や虫を食べて飢えを凌(しの)いでいたため、残念なことに弟2人は栄養失調で亡くなった。

 戦後沖縄に戻ると、母は自分が長女ではないという事実を知った。祖母に預けられていた姉2人兄1人が待っていた。パラオへは、乳飲み子だけを連れて行ったというわけだ。しかしやんばるの自宅は、南部から避難してきた人たちに占拠されていた。南部の安全が確保され戻っていくまで、牛小屋で暮らした。逆境の中を両親とも生き抜いた。厳しい人生をくぐりぬけてきた両親を、私は誇りに思う。
(いっこく堂、腹話術師)