コラム「南風」 研修漬けの日々


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 福岡大学医学部は新設でスタッフは診療、教育、研究全てに関わり勉強には好都合であった。胸部画像診断、気管支鏡の習得に努め人工呼吸器では新しい回路の作成など仲間と工夫した。呼吸生理(肺機能)では講師と研究も分担した。

上司への依頼原稿の執筆を任され英語の教科書や文献を読むことが習慣化した。体制の確立した伝統校と違いスタッフも若く自由に活動できたので自分の性にも合ってやりがいがあった。
 沖縄の医療を知りたく1980年末、県立那覇病院に厚生省派遣医として3カ月間単身赴任した。ほぼ毎日病院で寝泊まりし麻酔研修、救急、離島巡回医療などを経験した。
 米国留学や中部病院で研修した医師が多く自由闊達(かったつ)、実力次第という雰囲気があった。特殊な分野を除けば診療も本土に劣るものではなく救急ではむしろ凌駕(りょうが)していた。ここでの体験で後の麻酔科研修の契機となる。楽しく働いたが、給与がすぐに支給されず困った。
 その後、前任の浜の町病院に呼ばれて初代医長として呼吸器科を新設した。肺機能検査や人工呼吸器の拡充に尽力した。受診者が増え職員も病院もよく支援してくれた。私の退任直後の後輩から後に九州大呼吸器科教授や九州最大の呼吸器の国立病院長が輩出している。
 呼吸管理をさらに学びたく九州大麻酔科の医員(月給14万円)となった。卒後数年目の内科医の研修はまれであったが厳しくも温かく迎えていただいた。麻酔科は小さなミスが生命に関わるので絶えず患者の安全が強調され、症例検討会では歯に衣(きぬ)着せぬ真剣なやり取りが行われた。年次ごとの研修目標や評価が明確で内科に比べて格段と質の高い制度であった。経済的には楽ではなかったが、技術の取得とともに医療での安全確保の重要性を学んだ。
(名嘉村博、名嘉村クリニック院長)