コラム「南風」 死生観


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 海中道路ができる以前の生まれ故郷の宮城島の医療に触れたい。戦後、当初、診療所はなく島出身の医介輔(沖縄だけの戦後の一代限り医師資格)の先生がおられ、往診のみで1人で昼夜別なく診療していた。医師の私から見ても頭の下がる思いである。

私自身もひきつけ(熱性けいれん)でよくお世話になったと聞く。学校で米軍軍医による健診がありほとんどがビタミン・栄養不足と診断されていたようだ。
 1960年ごろに診療所ができて医介輔の先生は他の離島に移り、看護師と本土からの派遣医師が常駐し外来診療が開始された。フィラリアの撲滅運動も実施された。
 重篤な急病や手術例は時に渡し船を貸し切り本島の病院に搬送されたが、発熱や強い痛み、重症でない限り定期的に医師にかかる習慣はなかった。限られた種類の注射と処方にもかかわらず不満を言うことなく受け入れていた。出産も最後の看(み)取りもほとんど自宅で行われた。高齢者は食べなくなると寝込むようになり自然経過のごとく亡くなっていった。死も自然と受容していた(経済状態や離島苦のためせざるを得なかったともいえるが)。
 その後経済や医療制度の発達と共に日本中で徹底的な治療と延命処置が常となっている。食べないとほとんどの患者が鼻から胃に管を通す経管栄養、胃瘻(ろう)を受けている。宗教観の違いか欧米ではまれのようである。現在は死の受容が困難な時代とも言える。
 医療提供者、受ける側、双方が最善を尽くしたいと思うのでこれは単に善悪の問題ではない。また死生観を一方的に押し付けることも望ましくない。お互いに医療の限界を知り、寿命、老衰とは何かを考え、率直に話し合うことが安心感や満足感につながると思う。その過程で医療、特に終末期医療での何らかの国民的合意が得られるであろう。
(名嘉村博、名嘉村クリニック院長)