コラム「南風」 舞踊家の息子の巻


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 舞踊家としての母の思い出は、哀(かな)しいトーンを伴う。幼い頃、寝ていた母の手がスーと伸び、揺らめいた後、憑(つ)かれたように母は起き出して稽古場へ渡り、ひらめいた動きを形にするのである。バレエ曲が聞こえてくると、僕は夜中に一人取り残された寂しさに泣きじゃくるのだった。

 僕自身、舞踊家の息子であるだけ、踊りへの本能的疼(うず)きはあった。だが、いかんせんがに股で、体形に恵まれず、上手になれなかった。プライドが高かった僕は、肉体的な欠陥にひがんでしまっていた。ティーンエージの時にゴーゴーが流行(はや)って、激しいリズムに乗って体を縦横に動かすことで、やっと踊りの疼きを解決するすべを見つけた。ナイトクラブの暗闇を明滅する光の中で踊るのだ。結局、踊りへの本能的疼きは、母親にしてみれば心配の種にしかならなかった。
 日陰者のそんな僕の踊りへの疼きを遺伝子としてしっかり受け継ぎながらも、体形だけは受け継がなかった僕の息子は何とか正統派バレエダンサーの道を歩み始めた。これを育成するのは親の務めだとも思い、いかなる犠牲を払っても留学させて日の目を見せたいと思う。しかし、世界の登竜門ローザンヌ国際バレエコンクールで、モナコ王立バレエ学校に留学したライバルを差し置いて一位になった、かの仁山君は、長野県の田舎のバレエ教室に通っていたと聞くと、あ、そう、無理に留学をさせなくても開花するものは開花するのかと思い直してしまう。
 競争の激しい外国の一流学校に行って少ない出番を待つよりは、感受性の強い時期にこの田舎で、王子から農夫まで、どんな役柄でもこなす経験を積ませることも、芸術性を大いに高める結果になるのではないかとほくそえんでしまうのは、息子を手元に置きたく、また経済担当である父親の身勝手か。
(南城秀夫、通訳・作家)