コラム「南風」 北谷に上陸した米兵


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 「戦後70年の節目」の言葉を耳にする時、当時を生き延び乗り越えてきた体験者にすれば悲しく心がかきむしられるような痛みを感じるであろう。

 しかし、第2次ベビーブーム以降の若い世代の人にはその心の痛みは実感がない人がいるかもしれない。だがその心の痛み悲しみは当時を知るアメリカ人にも同様な思いであろう。
 2000年、アメリカ・テネシー州在の複数の傷痍(しょうい)軍人病院(VA)を訪問する機会があった。身体的、精神的な病で入院している数人の患者がロビーのソファに座って無言のまま窓越しに外を眺めている。
 入り口のドアの開く音を聞くと一斉に顔を訪問者に向ける。私は職員の案内で病室やレク室などを案内してもらった。複数の患者が私の後についてくる。レク室のソファに座ってコーヒーを飲んでいると、厳しい表情をした患者が側に座って言った。
 「あなた日本人?」「はい、私は沖縄からです」。すると彼はいきなり私を抱きしめて「sorry,sorry」と言って言葉を続けた。
 「1945年4月、私はアメリカ兵として北谷海岸に上陸した。静かで美しい島だった。何の反撃もなかった。女や子どもたちが逃げかくれ、中には倒れて行く姿を見た。それが今も目の前に現れてくる」
 彼は涙を流して私の手を強く握り、「僕はPTSDと診断され今ここの病院で静養している。だが沖縄のことを一度も忘れたことはない。生きている間に沖縄を訪れ謝りたい」と。彼は戦後55年間一人で心の中に抱え込んでいた重荷を話すことで、次第に表情が和らぎ笑顔が見られた。彼の人間性に深く感動した。
 程順則(名護親方)は「隠ち隠さりみ人の過ちぬ 急じ改みて 我肝磨き」と教えている。名護親方の戒めを今日も明日も強く心に刻みたい。
(座間味宗治、沖縄語普及協議会副会長・臨床心理士)