コラム「南風」 ある人形師のひな人形


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 70年前の3月23日、沖縄各地で米軍の艦砲攻撃が始まり、沖縄県民を恐怖に陥れました。
 4月1日に本島中部・西海岸から上陸してくると、のどかな沖縄の島が見る見るうちに、火の海となり、地上には死体が折り重なり、20万人余りの尊い命が失われました。誰もが予想しなかった地上戦で目の前の恐怖のあまりいつしか、人間としての心を失いかけていたといいます。

 地元の聞き取り調査では「皆はどうだったか、分らないが私は人間でなかった」「戦争だったから仕方ない」と話してくれた体験者の心は、今でも複雑な想(おも)いです。
 そんな中で、糸数住民に救われた命があります。愛知県の日比野勝廣氏は沖縄戦の激戦地・嘉数高地で戦い負傷し、病院をさまよい、南風原陸軍病院から糸数アブチラガマに運ばれてきました。戦場が南下してくると、さらに南部への撤退命令が出され、重症患者には青酸カリが渡され置き去りにされました。暗闇のガマで無数の屍(しかばね)と共に3カ月を過ごし、自然洞窟に守られ、糸数住民に食糧を分け与えてもらい、奇跡的に生き延びることが出来た一人です。
 自分の命を救ってくれた地元住民に感謝し、そのお礼に人形師の故・日比野氏が一体一体に「平和への祈り」を込め、作り上げたひな人形を旧玉城村の三つの幼稚園に贈りました。これから先もずっと人形を飾ることのできる平和な時代が続きますように、ひな人形に「想い」を託しました。
 私たちは、その「想い」をバトンタッチし、「糸数アブチラガマとおひなさま」と題して紙芝居を作成しボランティア活動を続けています。
 3月3日のおひな様の節句は平和の象徴であり「平和の日」とも言われ、玉城の幼稚園のひな人形は今でも、子どもたちの笑顔を見守り続けています。
(當山菊子、南部観光総合案内センター嘱託職員)