コラム「南風」 あの時 なぜ?


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「お~い!みんな元気か今日はなぁ○○君の命日だ」と話す電話の声は、沖縄が戦場となる前、中国の上海から対馬丸に乗せられ沖縄戦で戦い死線をさまよった日比野氏です。

 生前、彼は戦友や家族を連れて、110回以上も沖縄を訪れ、戦場の道のりを歩み供養の旅を続け、双子の娘に「糸子・数子」と命名し家族を沖縄戦没者慰霊の旅に巻き込んだ。
 「お母さん、俺が死んだら仏壇に牡丹餅(ぼたもち)を供えてくれ」。ガマの中で死んで逝った者の最後の言葉を彼は忘れる事はなく、アブチラガマの慰霊碑に赤福を供え続けた。
 無念の死を遂げた者に対し「自分だけ生き延びてしまい申し訳なかった」と生きた事への自責の念に苦しむ。彼の行動は加害者と被害者の立場で沖縄の人にも家族にさえも理解される事なく「忍ぶ」思いを伝えた。そんな彼に興味を持ったのが出会いの始まりでした。数多くの生存者がいる中でなぜ、彼は地獄を見た場所に何度も足を運ぶのか、私も家族と同じ思いでいた。
 初めてガマに一緒に入った時の衝撃に身体が震えた。「お~ぃ会いに来たぞ。今度生まれてくる時は、戦争のない時代に生んでほしいと母親に頼もうなぁ」と悲痛な声がガマに響いた。
 また、晩年、車イスになった彼に同行したある日の事、突然「あのなぁ~どうして何の恨みもないアメリカ兵に銃を向けたのだろうか」と、問いかけてきたが、答える事ができなかった。彼らは何の恨みもない者に銃を向け、人殺しをさせられたと「今なお、屍(しかばね)とともに生きる」の手記で生きる苦しみを訴えています。
 平和になっても心の空白を埋める事ができずに孤独と闘い、自分の心を取り戻そうと、あの時なぜと自問自答を続けた日比野さん。彼の口から「生きていて良かった」と、最後まで聞く事はできませんでした。
(當山菊子、南部観光総合案内センター嘱託職員)