コラム「南風」 故郷石垣島からの旅立ち


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 高校から大学へ進むとき、井の中の蛙(かわず)になりたくないと、小さな石垣島を飛び出し、本土の大学を目指した。医者か弁護士か迷ったが、生物の授業のカエルの解剖でカエルが緑色の血を出してピクピクと悶(もだ)えているのを見て気持ちが悪くなり、「これが人間で赤い血が出たらたまらない」と思い、医学志望はやめた。幸い、当時の琉球政府の選抜試験に通り、東京の中央大学法学部に進むことになった。

 故郷を離れるにあたり、自分を生み育んでくれた石垣島にお礼の挨拶(あいさつ)をし記憶に残そうと、歩いて島を一周することにした。家族に内緒で、早朝リュックに食べ物や飲み物を詰めて、自宅の登野城から平得・大浜へと、逆時計回りに歩いた。幸い天気が良く、昇る朝日に八重山民謡「鷲の鳥(ばすぬとぅる)」の一節を思い起こした。昇る朝日も私の旅立ちを祝福してくれているかのようだった。
 白保へ着き、現石垣空港があるカラ岳、平久保崎灯台まで行って戻り、野底のあたりで日が暮れたので、野宿することにした。常々ハブは砂浜には降りて来ないと聞いていたので、野底の砂浜で野宿した。満潮時でも波が来ない所に横になった。満天の星と月が大パノラマのようで、きれいだった。流れ星も流れ、人工衛星も動いていくのが見えた。
 翌朝太陽に起こされ、おにぎりを食べ歩きながら川平湾へ向かった。左手には沖縄一高い於茂登岳がそびえている。川平湾のブルーはとても美しかった。名蔵湾を過ぎ、観音堂を通って市内へ入り自宅へ戻った。
 上京の時、何を持っていくか考えたが、八重山民謡のLPレコードも持って行くことにした。バスケット部の丸坊主に学生服姿で、石垣の桟橋から「みどり丸」で島を旅立った。家族や友人が色とりどりのテープで、いつまでも見送ってくれていた。
(宮城和博、弁護士)