コラム「南風」 ヴォイストレーニングの巻


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 バンドヴォーカルとして、カフェなどで歌い、青春の不完全燃焼を燃やし切ると、すっと落ち着いた。

 ビートに感応するチムワサワサーも懐かしいものとなり、もはやハイサイおじさんかと諦めていたが、何の何の、還暦を過ぎて、かかるお呼びに腰が上がる。
 ザ・エドワーズのステージに立つと、まぶしいライトに怯(ひる)んでしまう。前奏に促されて、ジャンプイン。楽器と一体になってアンプから流れる歌声は、はて自分の声か。流麗なギターの旋律と迫力あるドラムビートには負けられない。“銀河鉄道”は上昇する。チムワサワサーではなく、仕事をこなす高揚感に煌(きら)めいて。
 レパートリーであるロックの王者エルビス・プレスリーは美声で、音階は上のソまでオペラ歌手ばりに出すので、いささか苦しい。人前で歌うのに自己流もどうかと思って、ヴォイス・トレーニングに通い始めた。
 歌うには柔軟な喉の筋肉を要するが、年とともに硬くなる。高い音域では声が割れる。先生のような朗々とした声は望めなくても、長く澄んだ声が出ないものか。
 クラスで練習する曲はロックではなく、「芭蕉布」に始まり唱歌やカンツォーネに至るが、さまざまな曲を歌うことによって、あらゆる音階に合わせて声帯が動く。だが、腹から!頭から!と言われてもできぬ相談である。30分間の発声兼柔軟体操の後、1時間みっちり歌い込むと全身ぐたっとなる。
 酒で培った脂肪肝も振動で脂肪が溶けたかのように思えて、一挙両得である。さあ、今夜もビールが美味いぞ(何のこっちゃ)。
 バンドの練習も飛び飛びになったが、たまにステージに立ち、オールディーズをめったに聴かないであろう、くたびれた同世代が、懐かしさにいっときなりとも青春時代に戻っている様子を窺(うかが)うと、ああ、歌って良かったと思うのである。
(南城秀夫、通訳・作家)