コラム「南風」 ふるさとの巻


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 ふるさとは遠くにありて想(おも)うもの。首里の復興と少年の成長を、アメリカにいた頃に描いたのが「リュウキュウの少年(龍潭のほとりで)」という作品だ。
 外国にいると自分の源流が気になってくる。リュウキュウというふうにカタカナを使ったのは、戦争で古都も文化も一掃された町に生まれた断絶の世代で、何ら琉球の識見もなく、首里言葉(スイクトゥバ)も使えない自分だけれど、DNAを伝わる水脈はあると思ったからである。

 さて首里に帰ってみると、周りをコンクリート建てに囲まれた、私の生まれた赤瓦家(カーラヤー)は古色蒼然(そうぜん)として、まだふるさとらしい佇(たたず)まいだった。
 今では、息子は赤瓦家を恥じて、同級生に出くわさないように、そっと裏から表通りに出る。
 環境の変化より、人が現れ、人が消える世の新陳代謝の方が早く感じられる。
 戦前、中城御殿に出入御免だった真栄平房敬先生が先日、亡くなられた。王室の生活様式を記憶にとどめていた方だった。
 車は多いが、観光客は首里駅で降りて城に向かって左折するので、緑の龍潭界隈(かいわい)は登下校時や出勤帰宅時以外は歩く人は少ない。買い物も新興の石嶺町に車で行く。龍潭通りにスーパーがないのは解せない。文化祭では、池の土手が崩れそうになるほど人波に揺れる。
 以前は「はい、首里の出身です」と高らかに宣言していたが、もう言わなくなった。鼻持ちならず聞こえることもあると気づいたのだ。仕事を通して、地方の人たちの溢(あふ)れるバイタリティに惹(ひ)かれるようになった。
 私の友人がアルゼンチンを訪れた際、県人会で「グブリーサビラ。マーカラメンソーチャビタガサイ」と首里言葉で尋ねたら、ご老人が恐縮して返事につまったらしい。「僕は、首里は首里でも、北方(ニシカタ)ではなく三個(サンカ)の方なんだけどね」とその友人は苦笑していた。
(南城秀夫、通訳・作家)