コラム「南風」 関帝王の掛け軸


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 「関帝王の掛け軸を写してきてくれ」。大学生だった私に父は頼んだ。関帝王とは、中国の三国志で有名な関羽雲長のこと。劉備(りゅうび)・張飛(ちょうひ)と桃園の誓いで義兄弟の契(ちぎり)を結ぶ。容貌魁偉(ようぼうかいい)、赤ら顔で立派なひげを有し、義勇をもって知られ、没後軍神・財神として世界各地の関帝廟(びょう)でまつられている。

 「関帝王の掛け軸」はわが家伝来のもので、わが家の14世の先祖が琉球国王の命により中国に派遣留学した際に持ち帰ったものという。国際交流の先駆けであろう。先祖は古(いにしえ)の中国のどこへ行き、何をしていたのだろう。考えると胸がワクワクする。父によると、わが家のその掛け軸は先の沖縄戦で焼失したそうだ。父が台湾から復員後、沖縄中探したが見つからなかった。あきらめていたところ、石垣島でふと立ち寄った川平の高嶺酒造の床の間に、あった。父は大変喜び、それを模写してくれというのである。
 私は春と夏の休みを利用して、とりかかった。構図は愛馬、赤兎馬(せきとば)にまたがった関羽が右手に青龍偃(せいりゅうえん)月刀を持ち、軍旗を掲げた息子関平を従え、平原を進軍している図で、いかにも格好良いものであった。高嶺酒造のご当主高嶺さんは、私がおじゃまして模写している間中つきっきりで、自前の泡盛をチビリチビリやりながら見守ってくれた。約3年がかりで完成した時、高嶺さんは特製の泡盛でお祝いをしてくださった。模写の掛け軸はわが家に鎮座し、見守ってくれている。
 その後、中国の北京、上海、西安、台湾を旅行した際、探してみたが、関羽一人の図や像はあったものの、わが家と同じものにはお目にかかれなかった。これが縁で高嶺家と交流ができ、琉球の大交易時代に中国で国際交流の先駆けとなって活躍した先祖に尊敬の念が生まれたことは、意義深いことであった。
(宮城和博、弁護士)