コラム「南風」 人間になること


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 レンタカーを走らせ、のどかな南九州市へと向かった。目指すのは念願の知覧特攻平和会館。この会館は、1945年5月、沖縄に向け出撃した故・板津忠正氏がエンジンの不調で不時着生還し、戦後、特攻隊員の遺影や遺品を集めて回り、設立にこぎつけたという。

 館内には幾つもの写真や遺書が展示され、一瞬にして戦場に散った全国の若者たちの死に向かう姿があった。愛する者や家族にあてた手紙やハガキには、死を覚悟した別れの言葉が綴(つづ)られていた。彼らは何を思い、最期の瞬間どんな言葉を空に残していったのだろうか。胸が詰まる思いで、私は遺書を食い入るように読んだ。遺影を見る限りでは「国を守るため勇ましく、誇り高く散っていった」ように思えた。彼らの無念の死は、遺影や遺品として「生きた証」となり、これからも多くの人に語り継がれていくのだろう。
 私は、伊江島の「ヌチドゥタカラの家」の展示を思い出していた。そこでは戦場に残された物たちが雑然と置かれている。米軍の砲弾、母親の腕に抱かれたまま被弾した子どもが着ていた服…。それらが山のようにある。埃(ほこり)にまみれたそれらが「生き証人」として「目に見えないもの」を想像させ、戦争の悲惨さと残酷さを訴えていた。戦場に放り出され、死んでいった「名もなき者」たちの無念の死。あまりに痛ましく、私をとらえて離さなかった。
 「ヌチドゥ…」設立者の阿波根昌鴻氏は講話の中で「戦争中は死んで国のために尽くすという考えで命を粗末にしてきた。上からの命令にただ服従するだけ。意味も分からない。権利も分からない。日本が戦争に負けるまで人間ではなかった。人間になる勉強が必要だ」と語っていたという。
 再び同じ過ちを繰り返さないと誓って戦後70年、私たちは人間になれただろうか。
(當山菊子、糸数アブチラガマ専属ガイドゆうなの会責任者)