コラム「南風」 ルッキング・グラス・セルフの巻


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 人が激変する時期がある。それは思春期と呼ばれる十代である。それまでは自意識が薄く、無邪気に見ることに専念していた子供の意識が、自分自身に向かって、どのような人間であるのか、また他人にどのように映るのかが気になり始めるのだ。

 他人の良い反応、悪い反応が積み重なって、自画像がほぼ出来上がる。これを社会学用語でルッキング・グラス・セルフと言う。他人の目が鏡になるのだ。
 それは自分を人によく見せる努力に繋(つな)がると同時に悩みの種ともなる。おりしも肉体的変化が同時進行しており、厄介な性の衝動も加わって、他人との優劣の認識がコンプレックスにもなるのだ。
 四方八方、他人という鏡に囲まれないと自己は形成されないとするのが社会学的な見解だが、受け止める素材感性も確かにあって、それは生物学的には遺伝的自己であり、宗教的には魂ともいう。魂と呼ばれる場合、自己の核となる意識は物理を超えるものと考えられて、それは前世、今世、来世思想と繋がる。
 私の場合は「セルフ(自己)」の誕生の不思議さへの囚(とら)われが、哲学を専攻する基盤となった。学問をして何とかこの課題を解こうと思ったのだ。加えて、森羅万象の時空を超えた、すごい夢を見ることが相次ぎ、見知らぬおばさんには「はーしゃ、サーダカサよ」とも言われたりしたので、自己の解明は、すわ天命かと思っていた。
 十代後半から、そんな性格で難しい話をするものだから、ちったア、いい男だと思われていた節があったにも拘(かか)わらず、周りの女の人にはとりつくしまもなかったようで、孤独に長い青年期を送ってしまった。
 幸い、幼少年期に家族の愛をめ一杯受けて成長したので、私のルッキング・グラス・セルフによるとラブは後回しにしても困る筈(はず)はなかった。
(南城秀夫、通訳・作家)