コラム「南風」 元寇船を求めて


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 今、私は長崎県と佐賀県の間にある伊万里湾の海上にいる。元寇(げんこう)沈没船調査の真っ最中である。

 中国大陸にあった宋の国を滅ぼした元(モンゴル)帝国は、降伏した宋軍を再編制した江南軍約10万人、軍船3500艘(そう)と、朝鮮半島の高麗軍と元軍からなる東路軍約4万人、軍船900艘を動員し、1281年に日本への侵攻を図った。日本史でいう弘安の役である。元帝国は1274年にも高麗軍と元軍を編制して日本へ侵攻しており、これを文永の役と呼び、合わせて蒙古襲来(元寇)という。
 文永の役では博多湾に侵攻した元軍によって博多の街は壊滅状態となったが、にわかに元軍が撤退して戦闘が終わった。この経験を踏まえ、迎え撃った鎌倉幕府は博多湾沿岸に石築地(元寇防塁)を造り、二度目の襲来に備えたことで知られる。
 弘安の役の際には、この石築地が功を奏し、先着した東路軍は前回のように博多へ侵攻することができず、やむなく江南軍との合流地点であった平戸島周辺へ撤退した。合流後、再び博多を目指して伊万里湾へと進んだところで暴風雨に遭い、軍船の大半が遭難することとなったのである。
 長崎県松浦市鷹島の南海岸沖合海域からは、以前から中国産陶磁器などの遺物が多く採集されてきた。しかしながら、遺物は見つかるものの、しっかりとした船体が見つかることはなかったのである。
 ならば、「元寇船を見つけよう!」というのが私の調査研究である。口で言うのは簡単だが、いざ始めてみると、これがなかなか厄介で、思うようには進まない。音波探査装置を使って、海底の詳細な地図を作り、これを踏まえながら調査を続けた5年目にやっと1艘目を発見し、9年目の昨年、2艘目にたどり着いた。
 大変だったけど、見つける方法は確立したモン!
(池田栄史、琉球大学教授考古学)