コラム「南風」 セルフの彷徨の巻


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 学生時代に環境と人間性の関係に興味が募り、専攻をミクロの社会学に替えた。所は図らずも、移民街ウエストサイドと貧民街ハーレムに囲まれたキャンパスで、人間の濃厚な生活の臭いをたっぷり嗅ぎながら、聳(そび)えるビルの谷間を歩き回った。

 多様な人間群を見つめながら、では自分は何者かと考え始め、琉球のDNAを持つ自分の西洋を見る目線、角度に気がついた。東洋の真骨頂は内省、内観である。私はDNAの奥深く眠る民族の記憶を探った。
 この辺の事情は「リュウキュウ青年のアイビー留学記」に書いた。自分の心理を追究すると結構、エゴの中に自分の本質が見つかりやすいので、読者に誤解されてしまったのだが、色欲や顕示欲、その逆の劣等感や傷とか恥とか逃避欲など、ごろごろ出てきた。それらの瓦礫(がれき)を押しのけて、奥なる自分へと進むのである。
 さて、そんなことばかり考えてもいられない年齢に達し、英語の力を武器に生活するようになったが、時折、当時の課題が、頭をもたげる。しかし、孔子が弟子に「人間は死んだらどうなるか」、と問われて、「我(われ)、未(いま)だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と答えたように、依然として地も知らず、天も知らない。
 人が成長し、老いることは自己にとって、どういうことだろう。まだ少年のように鏡を見つめる自己と、鏡に映る老年とのギャップは甚だしい。
 家庭を築き、子育てをし、親の面倒を見、経済的義務を果たし、多少のメンツを保って生活している。私もサーダカ生まれだった筈(はず)だが、悟るどころか、年を追って生活の心配ばかりしている。それが人の世の常で、なるほどそうかと思えば、それも悟りと言えないわけではない。世俗にまみれ、人を養い、人に持ち物を譲って仙人になるという道程が今のところ気に入っている。
(南城秀夫、通訳・作家)