コラム「南風」 故郷を思う


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 八重山高校から東京の大学に行くことになり、バスケ部の私は特注の学生服と角帽の応援団姿で故郷を離れた。船で石垣港から那覇へ、那覇港から鹿児島港へ。鹿児島から石炭燃料の蒸気機関車(SL)で東京へ。トンネルを通るたび、開いている窓からの煤煙がひどかった。

しかし九州を縦断する車窓から、桜並木とレンゲ草や菜の花の絨毯(じゅうたん)が、「元気でやりなさい」と励ましてくれているようだった。
 東京駅には父の友人で身元引受人の秋葉さんが迎えに来てくれた。私は大きな黒いボストンバックを担ぎ東京駅に降り立った。さあ、ここが生き馬の目を抜くといわれる東京だ。毎日がお祭りみたいに人が多く、皆歩くのが速い。巨人・阪神戦を観に後楽園球場へ行ったが、入場者5万人。石垣島の人口より多く仰天した。空の色は東京をはじめ関東は灰色で、砂も江ノ島、千葉・木更津は黒い砂、汚れた海に見えた。沖縄の青い空と海、白い砂浜とは全く違う。そんな具合だから、学生寮の屋上で故郷恋しさのあまり、月に向かって涙を流しトゥバラマーを熱唱したことがある。すると警察と寮監が来た。警察官は「騒音だからやめなさい」と。寮監には「気持ちは分かる」と言われ、屋上から下りたのだった。
 高円寺の沖縄料理店「清香(きよか)」「抱瓶(だちびん)」で憩い、横浜の山下公園へ行った。この海は沖縄に繋(つな)がっている、と思いをはせていたのだ。疲れたら休みごとに帰り、古里の自然や人情に癒やされ元気をもらって戻った。
 今回のコラムで自身を見つめ直すことができ、あらためて両親と、私をはぐくみ育ててくれた故郷沖縄に感謝を深くした。そして沖縄が、アジア・世界の懸け橋「万国津梁」として、繁栄していくことを願う気持ちも一層強くなった。
 皆さま、ありがとうございました。再見!
(宮城和博、弁護士)