コラム「南風」 学問をつなぐ


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 私が考古学という学問を知ったのは中学生の時である。藤森栄一さんの「心の灯」という少年向けの図書を読んでのことである。
 高校に入ると、考古学クラブがあり、いつの間にか自分で遺跡を回って、土器や石器を集める考古ボーイになっていた。その時期に考古学の基礎的な技術や考え方を教えてもらったのは、熊本県教育庁学芸員だった野田拓治さんである。一昨年末に亡くなったが、考古学には一生をかける価値があることを学んだ。

 その野田さんに薦められて入った國學院大學で、お師匠さまに出会った。師匠の名前は乙益重隆先生。当時は日本考古学協会という全国の考古学者が集う学会の委員長であった。師匠からは考古学の研究手法、とりわけ実際の遺物や遺跡を綿密に観察し、記録した上で、立論することの重要性を徹底して教わった。
 その師匠はやはり大学時代に先輩に連れられて、考古学の世界に足を踏み込んでいる。先輩の名は江藤千万樹さん。大学卒業後、郷里の沼津で女学校教師をしておられたが、召集され、沖縄戦で亡くなった。藤森栄一さんは考古学者としての江藤千万樹さんの才能を強く惜しんでいる。江藤さんの名は平和の礎にある。情報端末によれば、どこで亡くなったか不明である。
 大学卒業後、師匠も召集され、下関の高射砲部隊で終戦を迎えた。戦後の一時期は実家で農業に従事していたが、やがて大学に戻り、日本農業、中でも農具の研究に邁進(まいしん)した。
 師匠は日本農業の成立に琉球列島からの影響があることを予見しており、その研究を企画していた。しかし、復帰前の沖縄には入ることが叶(かな)わず、われわれ後進に後を託して亡くなった。
 このような先輩や師匠たちの導きを得て、今の私がある。世代を超えて紡ぐ考古学の世界を、私もまた、後輩たちに伝えていこう。
(池田栄史、琉球大学教授 考古学)