コラム「南風」 涙を流すということ


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 いつ涙を流して泣いたか覚えているだろうか。泣けたのか、泣かされたのか。今にも泣きそうか、泣くまいと踏ん張っているのか。人前であれば、涙をみせるなんて恥ずかしさで我慢してしまうことも多いだろう。

 感極まる時に涙腺から液体が分泌されるとは、不思議な気もする。悲しい時、寂しい時、悔しい時、そしてうれしすぎる時、心ふるえる時。じわっとこみ上げることもあれば、ぽろぽろとあふれ出すことも。号泣する人もいれば、声をおしころして嗚咽(おえつ)になる場合もある。感情と身体が直結している現象だ。
 興味深い報告がある。目に入ったほこりや、タマネギを刻んだ刺激によって出てくる涙と、感情が高まって流れ出る涙とは、ホルモン成分に明らかな違いがあるそうだ。また泣いたあとは、泣く前に比べストレスが4割ほど軽減しているとか、苦痛が緩和されるとの調査結果もある。泣くという行為は、ストレスホルモンを排出することで脳をリセットさせ、気持ちをいやす効果があるらしい。泣きたい時に泣くのは、ごく自然で健全なことなのだ。
 そういえば泣いたあとって、状況は少しも変わらないのに、少しばかりスッキリ感がある。ならば泣くべき時に泣かない手はない。泣くことできつさを発散させ、ストレスを流し出していこう。思う存分泣き終わったら、そこから一歩前に進める気がする。
 大きなグリーフ(死別の悲しみ)にある時、人は涙が涸(か)れ果てるまで、泣いて泣いて泣きまくる。それは人間らしい豊かな行為なのだ。ちなみに私も「なちぶさぁ(泣き虫)」である。
 誰かが耐えがたいグリーフに抵抗しながらも、現実を受け入れていかねばならないのであれば、せめて心おきなく泣けるその環境を優しく提供できる者になりたい。
(関谷綾子、グリーフワークおきなわ)