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「パティシエの夢かなえたよ」 遺児支援施設が居場所に 震災で母亡くした大槻綾香さん(27)<東日本大震災13年>


「パティシエの夢かなえたよ」 遺児支援施設が居場所に 震災で母亡くした大槻綾香さん(27)<東日本大震災13年> 東日本大震災で母親を失った大槻綾香さん。夢をかなえ、パティシエとして働いている=2月、埼玉県春日部市
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 東日本大震災で親を失った震災遺児・孤児計1810人(岩手、宮城、福島の3県、2023年3月時点の厚生労働省まとめ)の多くは、13年の時を経て大人になっている。あしなが育英会の支援施設「東北レインボーハウス」(RH)が設立され、今年で10年。大槻綾香さん(27)は、宮城県石巻市で母親京子さん=当時(42)=を亡くし、RHが大切な居場所になった。今はパティシエとして働く。母に「夢をかなえたよ」と伝えたい。

 キッチンには、お母さんの思い出が詰まっている。料理をする母の姿に憧れ、4歳ぐらいから料理を始めた。小学生のころには、自分でお弁当を作っていた。母とレシピ本を広げ、ブラウニーやクッキーといったお菓子作りに励んだ。「パティシエになりたい」と話すと、母は「できるよ」と笑顔で言ってくれた。

 中学2年だった11年3月11日。母校の北上中は高台にあって津波は到達せず、避難所になった。やがて父が迎えに来て、小学6年だった弟と会えた。弟は体に傷があり、ぼうぜんとしていた。

 母と弟がいた自宅に津波が押し寄せ、2人でキッチン台に上がったが、流されて離れ離れになってしまったという。

 母の遺体は約1カ月後に見つかった。父がその事実を伝えてくれた。毎日のように母の夢を見た。それは避難所での再会や、家の中でのたわいもない会話。「いたじゃん」と思うのに、目が覚め、心がすり減る。

 この年の秋ごろ。父に人気ゲーム「ポケットモンスター」関連のイベントに誘われた。育英会の主催だった。楽しい時間を過ごせ、弟と同会のプログラムに参加するようになった。

 自己紹介で、誰を、どう亡くしたか、話す。学校ではごく一部の人にしか打ち明けられなかったが、同じ境遇の子どもたちの中では、安心感があって語ることができた。

 高校生だった14年、震災を受け東北RHと総称される、三つのRH(仙台市、石巻市、岩手県陸前高田市)ができた。大学生のボランティアがいつも話し相手になってくれた。年下の子どもたちと、鬼ごっこやサッカーをして過ごす日もあった。

 高校卒業後、仙台市の専門学校を経て、大学に編入。RHでボランティアを始め、支援する側になった。「周りを頼っていいよ」と伝えたい。そして「この人なら話してもいいかなと思える人」でありたい。そう思って、今も続けている。

 就職した埼玉県春日部市のレストランで、多彩なケーキを楽しく作っている。母の夢はこの数年は見ていない。顔の記憶も少し薄れてしまったような気がして、寂しい。

 店では作らないけれど、夏の日に恋しくなる味がある。母がよく作ってくれた牛乳寒天だ。お母さんの味を求めて、1人暮らしの自宅のキッチンに立つ。

(共同通信)