<未来に伝える沖縄戦>避難所、泣きやまない妹 前原恵子さん(72)


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前原恵子さん(72)

 那覇市に住む前原恵子さん(72)は、西表島で戦争を体験しました。西表島などの先島地方では、沖縄本島のような地上戦はありませんでしたが、避難先でマラリアなどの病気がまん延していて、多くの住民が亡くなりました。前原さんの体験を那覇商業高校2年生の比嘉優見さん(16)と神谷鈴さん(17)が聞きました。

 当時は6歳で、母と3歳の妹、生後6カ月の妹と4人で西表島西部の白浜という集落で暮らしていました。普段から軍需品を載せた船が、近くの白浜港によく来ていました。父は前の年にマラリアで亡くなっていました。

 《1941年、西表島で日本軍の陣地づくりが始まりました。島の西部は、44年末ごろから米軍機による空襲が始まり、白浜地区の住民らは集落の後方に防空壕を造っていました》

 45年の正月ごろでした。私たちは家で正月の祝いの準備をしていました。港の方から「ドカーン」という爆発音が聞こえました。直接見たわけではないけれど、「爆弾を落としたんじゃないか」と言われていました。
 「飛行機が来ると逃げなさい、防空壕に行きなさい」と避難訓練をしていました。爆音が聞こえるとサイレンも鳴っていました。でも正月ごろにあった爆撃は、サイレンも鳴らずに突然でした。母も私たちを連れて避難しましたが、母は坂道の途中で腰を抜かして動けなくなりました。ほかの人に助けられて何とか避難所に逃げられました。

※続きは10月8日(土)付紙面をご覧ください。