<未来に伝える沖縄戦>失われた青春時代 中山きくさん(83) 上


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中山きくさん(右)の話を聞く普久原絢香さん(中央)と金城麻子さん=11月30日、那覇市の松山公園、県立第二高等女学校跡「白梅の乙女たち」像前

 那覇市に住む中山きくさん(83)は、県立第二高等女学校4年生(16歳)の時、日本軍の従軍補助看護婦として野戦病院に配属され、沖縄戦を体験しました。県立真和志高校1年の金城麻子さん(16)、普久原絢香さん(15)が話を聞きました。

 私たちの世代は子どものころから、お国のために命を懸けて尽くすという軍国主義教育を受けて育ちました。1935年に日中戦争が、41年には太平洋戦争が始まります。当時は「お国のために」「欲しがりません勝つまでは」というのが魔法の言葉でした。国は言論も、新聞も、出版も規制し、国民にいいことばかりを伝え、私たちは戦争のことを何も知らなかったのです。

 那覇市松山にあった県立第二高等女学校に41年に入学しました。3年生の時に全国学徒動員令が下され、4年生になると日本軍が続々と沖縄に入って来ました。私たちは陣地構築や壕掘りなどに明け暮れました。

 そして44年10月10日、「10・10空襲」がありました。初めて私たちの上に爆弾が落ち、機銃の雨が降りました。その朝は砲台を造りに行く予定でしたが、いきなり大きな爆発音がしました。小禄飛行場に爆弾が落ちた音でした。大音響と黒煙が上がりました。那覇は9割が焼け、県立二高女の校舎も下宿も全部焼けてしまいました。

※続きは12月10日(土)付紙面をご覧ください。