<未来に伝える沖縄戦>各所に捨てられた子ども 宮平義子さん(82)上


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 1945年8月、当時16歳の宮平義子さん=那覇市=は、旧満州国(現中国東北部)で、攻めてきた旧ソ連軍から逃げるため山中を逃げ回りました。避難中、幼いめいとおいを亡くし、父親はソ連兵に射殺されました。宮平さんの戦争体験を那覇市立首里中2年の嘉手苅林太朗君(14)と吉田瑛祐君(14)が聞きました。

 《宮平さんは県立第二高等女学校の生徒だった1944年、10・10空襲で焼け出され、大分県に疎開しました。45年5月、満蒙開拓青少年義勇軍(隊)の中隊長だった長兄を頼りに両親と兄嫁、7歳と5歳のおい、3歳のめいの7人で旧満州国の勃利に身を寄せました。敗戦直前の8月、兄が召集され戦地へ。同月9日、ソ連軍が満州に侵攻し、義勇軍の勃利本部は11日、在留邦人に避難命令を出し、宮平さんは5歳のおいを背負い、家族らと山中に避難します》

 幼い子どもを背負って山道を上ったり下ったり。いつも隊列のビリだった。歩き始めて翌晩、中国人の集落にたどり着いたら、日本兵が「泣き声で敵に見つかるから小さい子どもがいたら殺しなさい」と言っていた。
 幼い子どもたちは一つの部屋に閉じ込められて、兵隊にみんな銃殺されたわけ。中年の母親が「遅かった」と泣いていたから「どうしたんですか」と聞いたら兵隊に子どもを渡したけどわれに返って連れ戻しにいったら、もうやられている。
 翌朝、集落を出発する時、親のいない赤ちゃんがはいはいしていた。親は捨てていったわけ。水の中に捨てられた赤ちゃんもいた。畑の中とかあちこちに捨てられた子どもたち。そういう子が現在の残留孤児だと思う。
 3日目の晩、山の中で子どもを身ごもっていた兄嫁がお産してね。私は5歳のおいをおんぶしていて、その晩ははぐれてたんだけど。翌日、ものすごい土砂降りでね。「昨晩、出産した人がいた」という話を聞いて「きっと姉だ」と思い、来た道を急いで戻ったら、赤ちゃんを抱いた姉がゆっくり歩いて来た。くるんでいた毛布はぬれ、赤ちゃんの体も紫色になって。
 かわいそうに男の子だったんだけど。3日くらい、おっぱいを吸わせてたのかな。姉は何も食べてない。栄養も取ってないから、おっぱい出るわけないよね。とうとうその子は亡くなった。山の中に穴を掘って埋めてね。

※続きは12月24日付紙面と12月25日付紙面をご覧ください。