<未来に伝える沖縄戦>犠牲の上に現在の幸せ 宮平義子さん(82)下


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 《宮平さん一家はロシア人の集落から逃げ出したものの、再び中国人の自警団に取り囲まれ、収容所に連行されました。そこにいた何万人もの日本兵士の姿を見て、宮平さんは敗戦を知ります。その後、汽車でハルビンから新京(現在の長春)へ連れて行かれ、解放されました。しかし、宮平さんは回帰熱にかかり、新京の病院に入院することに。「私一人はどうにでもなるから」と途中で合流した姉らを先に帰し、異国の地で一人になりました。病気が治った後、その病院の伝染病棟で医師の付き添いや雑用などに従事しました》

 注射もしたこともないのに、見よう見まねで注射をして。満州は冬でマイナス30度の極寒。つらかった。コレラ患者は夜、体をきれいに拭いて寝かせても、翌朝は寝床から落ちて汚物の中で転げ回っている。たまったものじゃなかった。よく感染せずにいられたと思う。そして、病院が引き揚げの時、一緒に帰ってきたんです。引き揚げるときは重症患者はみな注射で殺したんです。動ける人だけ連れて。1946年11月に長崎県の佐世保に引き揚げました。

※続きは12月25日(日)付紙面をご覧ください。