<未来に伝える沖縄戦>叔母が対馬丸で犠牲に 町田妙子さん(81)上


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 沖縄市に住む町田妙子さん(81)は越来国民学校(現越来小学校)高等科2年の時、沖縄が戦場になる可能性が高くなったため、宮崎県に疎開することになりました。当時14歳でした。戦争の足音が聞こえてくる中での授業や疎開先での暮らしを沖縄市立山内中学校2年の新垣善人君(14)、平良菜摘さん(同)が聞きました。

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 わたしたちが小学生のころは戦争の時代でした。太平洋戦争が激化して、わたしが高等科2年だった1944年に疎開が始まりました。
 疎開前の学校の授業は戦争の中で勉強しているようなものでした。怖いという感覚はないですが、先生が戦争の話を一生懸命していたのを覚えています。
 体育の授業では竹やり訓練をしました。先生が「敵がきたらこれで突くんだよ」って。「えいっ、やっー」という掛け声とともに。当時の先生は、子どもたちにまで戦を教えることはつらかったと思います。

※続きは1月14、15日付紙面をご覧ください。