<未来に伝える沖縄戦>疎開先で過酷な生活 町田妙子さん(81)下


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 《那覇から鹿児島にたどり着いた町田妙子さんたちは疎開先の宮崎県岩戸村(現高千穂町)山裏国民学校へ到着し、疎開生活が始まります。受け入れ先では貧しいながらも地元住民から温かい支援を受けます。しかし、学童集団疎開は児童たちにとって過酷な生活でした》

 1944年の秋、私たちは岩戸村栃木集落に温かく迎えられました。冬には素足で薪を取りにいったこともありました。岩戸村での2年余りの疎開生活は忘れることはできません。その中でも2人の児童の出来事はつらい思い出です。
 対馬丸沈没で家族を失い、そのショックで、心を病んだ児童がいました。家族と別れて疎開してきた兄弟2人の弟で、4年生の男の子なんですけど、ほかの家族4人は対馬丸に乗船し、沈んでしまったんです。
 栃木集落に着いて、男の子が「お母さんから連絡ないけど、どうして」と先生に聞いたんです。先生は「対馬丸ね、沈んだんだよ。やられて、沈んだよ」と涙を流して説明したら、男の子は真っ青な顔になって。必ずお母さんから連絡あると思っていたんでしょうね。「連絡ない。連絡ない」って。男の子はショックで心を病み、奇行に走ってしまいました。
 男の子は、はいかいしては近隣の農家に忍び込んで食べ物をあさるようになりました。引率の先生は怒ることができなくて。「どんなして取ったの」って優しく聞いたら、正直に説明していたそうです。周囲の大人はよけいに涙が出ていました。
 その後、男の子は大阪の叔父に引き取られましたが奇行は変わらず、行方が分からなくなっていました。戦後20年たって大阪の精神病院にいることが判明しましたが、叔父が迎えにいったころには既に亡くなっていたそうです。兄は終戦後、沖縄に引き揚げましたが肉親もなく、しばらくして弟と同じように心を病んでしまい、早くに亡くなってしまいました。

※続きは1月15日付紙面をご覧ください。