<未来に伝える沖縄戦>サイパンで壮絶な戦禍 上原正夫さん(80)上


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 米軍が沖縄に上陸する約9カ月前の1944年6月から7月にかけて、マリアナ諸島サイパン島で約6千人もの県出身者が犠牲になった戦いがありました。14歳の時に壮絶な戦禍に巻き込まれた末、家族5人でがけから飛び降り、大好きだった母と姉2人を目の前で失った那覇市の上原正夫さん(80)の話を、小禄中1年の金城有香さん(13)と長嶺美樹さん(同)が聞きました。

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 昔の沖縄は生活苦でね。両親は移民として小禄からサイパンに渡っていたわけ。兄さん以外の僕らきょうだい4人はサイパンで生まれ育った。3歳ぐらいの時、父親が土木工事中に事故で亡くなったもんだから、お母さんがバナナを栽培して生活しておったわけです。赤い南洋桜が咲き誇ってね、とってものどかな美しい島でしたよ。「チャモロ」「カナカ」と呼ばれる島民とも仲は良かったですよ。

 《1941年に太平洋戦争が始まり、サイパンにも戦争の足音が近づいてきます》

 そのころには日本の飛行機も多くなるし、兵隊も多くなってきた。学校で先生が戦果を上げた人の武勇伝を教えながら、現実の戦争の話に持っていくんですね。「お前らも金鵄勲章をもらうように働かんと駄目だよ」と。「米兵に捕まると戦車でひかれ、耳鼻を切られる」「残酷なことになるから死んだ方がいい」とも言われていました。
 軍隊と同じような教育ですからね、殴られたり蹴られたり相当きつかったですよ。でもそのころは大日本帝国ってね、国が戦争に勝てば栄えるんじゃないかと思っていた。日本は勝つとしか思っていないですからね。

※続きは3月17、18日付紙面をご覧ください。