<未来に伝える沖縄戦>昼でも真っ暗なガマ 知花治雄さん(78)下


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劣悪な環境だったシムクガマでの生活などについて語る知花治雄さん=10日、読谷村波平の知花さん宅

 《1945年4月1日、米軍は読谷村や北谷町の海岸から上陸しました。日に日に激しくなる艦砲射撃や空襲を避けるために多くの住民が自分たちで造った壕やガマに避難し、毎日おびえながら生活していました》

 今の自宅の玄関付近に穴を掘って防空壕を造った。1945(昭和20)年3月25日までそこにいたが、警防団長に「シムクガマに来なさい」と言われ、そこに行った。10・10空襲以降、多くの住民がシムクガマに避難し、出入りを繰り返していた。
 ガマは昼でも真っ暗で、シラミやノミをつぶすことしかやることがなかった。赤ん坊は泣きわめいていた。畳一畳分の場所に5、6人がいた。夕方になると、山原に避難するために出て行く人もいれば、入って来る人もいた。どのくらいの人がいたか分からなかった。千人いたといわれているが、それは祖父(平三)が米兵に話した数だ。
 3月30日か31日に壕の入り口で戦車砲弾がさく裂して住民4人が死んだ。ガマの周辺はみんな爆弾の穴だらけだった。4月1日、知り合いのおじーが「アメリカーがちょーんどー(来たぞ)」と大声で叫んだ。中から警防団の少年4、5人が竹やりを持って「アメリカーまーやが」と応戦しようとしたが、平三のおじさんでハワイ帰りの比嘉平治が大声で「竹やりを捨てろ」と怒鳴った。怒鳴られたから、少年たちは中に戻った。
 平治は、同じハワイ帰りの平三に米兵と話せと言ってきた。平三は米兵に「兵隊いるか」「壕に何人いるか」と聞かれた。そして「あんたが先頭に立って壕に入れ」とも言われた。