<未来に伝える沖縄戦>朝から夕方まで壕掘り 大城正祺さん(79)上


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大城正祺さん(左)から壕掘りや米軍の戦車から逃げる様子を聞く長嶺中3年の天久若菜さん(中央)と嘉数奈穂さん=4日、豊見城市の金良公民館

 豊見城市に住む大城正祺さん(79)は沖縄戦時、戦火をくぐり抜けようと、豊見城村から糸満町(いずれも当時)へ逃げましたが、一緒に逃げていた31人のうち11人が亡くなるという壮絶な体験をしました。大城さんは、そんな体験をした自分のことを「艦砲ヌ喰(ク)ェ残(ヌク)サーヌ カラビサーワラビンチャ(艦砲が食べ残したはだしの子)」と呼んでいます。大城さんの体験を、豊見城市立長嶺中3年の天久若菜さん(14)と嘉数奈穂さん(14)が聞きました。

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 戦争(沖縄戦)が始まる1年前の1944年(昭和19年)、私は長嶺小学校(当時・豊見城第一国民学校)の6年生だった。6年になってからは、書く勉強はなかった。騎馬戦など運動ばっかりやっていた。登校時には天皇陛下と皇后陛下の写真に最敬礼し、ルーズベルトやチャーチルのわら人形を竹やりで3回突いてから教室に入っていた。帰る時も同じ。今、先生はあまり天皇陛下の話をしないでしょ。昔は「天皇陛下のために戦争するんだ」と教えていた。
 その後は兵隊の壕掘りの手伝いをするようになった。学校から2列縦隊で、識名の山まで行くと、兵隊が壕に案内していた。僕たちは30メートルから50メートルぐらいの穴の中に入っていった。朝鮮の兵隊がつるはしで掘った土を、さらに後ろに立っている朝鮮の兵隊がシャベルで僕らのざるに入れていく。僕らは大きな掛け声を出しながらどんどん後ろに回していった。

※続きは6月9日付紙面をご覧ください。