<未来に伝える沖縄戦>登校前に空襲 生活一変 平良節子さん(75)上


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松本誉君(左)と比嘉隆之介君(中央)に、自身が体験した沖縄戦の話をする平良節子さん=11日、那覇市首里石嶺町

 当時7歳だった平良節子さん(75)は、学校に登校する準備をしている時に、那覇市で1944年の10・10空襲を体験しました。その日を境に、それまでののどかだった生活が一変。危険を逃れるため、家族との別れを経験しながら、県内各地を転々としました。平良さんの戦争体験を、那覇市立城北中学校2年の比嘉隆之介君(14)と松本誉君(13)が聞きました。

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 戦争が始まる前は、那覇港近くの西本町に住んでいた。祖母、県立第二高等女学校に通う叔母、母、弟の5人家族。生活はのどかでね。デパートでみつまめを食べたり、友達とバスを追い掛けたり、人力車に乗ったり。私はおばあちゃん子だった。祖母は下宿屋を営んでいて、家はいつもにぎやかだった。
 学校に行くときは、防空頭巾をかぶっていた。上級生が迎えに来て、2列で学校に通った。ばらばらでは登校しなかった。
 大人たちは隣組で防空訓練をしていた。私たちは「空襲警報が聞こえてきたら、今、僕たちは小さいから、大人の言うことをよく聞いて、慌てないで騒がないで、入っていましょう防空壕」って歌っていた。60年以上たつが、忘れないね、この歌。どこで習った歌か分からないけど。

 《幼い平良さんは、10・10空襲で、戦争の到来を実感しました》

 朝、学校に行く準備をしていたら、警報が鳴った。空一面に飛行機が見えた。近所の人と共同で掘っていた小さな壕に30人くらい入った。「怖いよ、怖いよ」って言いながら、祖母に連れられて壕に入ったね。壕は本当にちゃちだった。爆風でかぶせてあった土が吹き飛んで、その壕にいられなくなった。
 壕から出たら、みんな死体で、那覇は火の海。けが人の「助けて」「連れてって」って声が聞こえた。祖母に「怖いよ」って言いながら、家族みんなで午前中に旭橋を通って、南風原の喜屋武を目指した。

※続きは9月22日付紙面をご覧ください。