<未来に伝える沖縄戦>壕の中、負傷兵であふれ傷口からうじ虫がわく 宮城巳知子さん(86)上


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宮城巳知子さん(右端)が体験した沖縄戦の話に耳を傾ける嘉手納中学校3年の(左から)近藤陽代さん、新垣喜恵さん=9月22日、嘉手納町屋良

 嘉手納町屋良に住む宮城巳知子さん(86)は県立首里高等女学校の生徒で組織された「ずいせん学徒隊」として沖縄戦を体験しました。米軍の攻撃から逃れながら命懸けで看護活動をしました。学徒隊解散後、宮城さんは米軍に保護されました。宮城さんの戦争体験を嘉手納中学校3年の近藤陽代さん(15)と新垣喜恵さん(15)が聞きました。
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 女学校は嘉手納になかったから16歳で首里高等女学校に入った。嘉手納から首里まで汽車通学をしていたが、戦争が来る前は非常に楽しかったよ。あのころは希望してもしなくても4年生は必ず看護隊になるということだったから私は看護隊に行かされた。
 女学校の授業で看護教育を受けた。熱が出たらどうする、けがをしたらどうする、食事はどんなにしてやるといって、今の看護師さんがやっているような仕事を教えられた。ときには2人1組になってけが人の包帯の巻き方、担ぎ方をさせよった。初めから負ける戦の用意だったのかねと思うさ、今になったら。

 《1945年3月、看護実習と卒業式を終えた宮城さんたちは第62師団石部隊の野戦病院壕(通称ナゲーラ壕、南風原町新川)に配属されました》
 兵隊は気が荒くてよ。「おまえ、芋掘ってこい」「水くんでこい」と全部命令。そのころは芋掘ったり、水くんだりするのは至難の業。「おまえ、外行って死んでこい」というのと同じ。飛行機に見つかったらいけないし、艦砲射撃がボンボンボンボン落ちるから、その破片が飛んでくる。そういう中をくぐりながら自分たちは防空壕まで走るわけさ。

※続きは10月13日付紙面をご覧ください。