<未来に伝える沖縄戦>ひん死の兵隊の声、今も 宮城巳知子さん(86)(下)


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「戦争は二度とやってはいけない」と力を込める宮城巳知子さん=9月22日、嘉手納町屋良

 《食料や水も不足し、ナゲーラ壕にいる負傷兵は極限状態に追い込まれていました。治療も十分にできません。そして、多くの人が亡くなりました》

 けがをしている兵隊が「看護婦さん、おにぎり一つちょうだい。食べたら僕は死んでもいいから」とか「水を飲ませて。飲んだら僕は死んでもいいから」。それと「うじ虫取って」。防空壕の中はこれ以外に声は聞こえない。そう言えるのはまだ元気のある人で、その他はそのまま防空壕の中で死んだ。あの声が頭の中に残っている。

 《1945年5月、宮城さんたちは南部の壕を転々としていました。6月に入り、学徒隊にいったん解散命令が発せられましたが、次は摩文仁村米須(現糸満市米須)の本部壕に集まるよう伝令が来ました。しかし、米軍の馬乗り攻撃があるとの情報が入り、米須の壕で再び解散しました。途方に暮れた宮城さんと学徒隊の仲間は一緒に死のうと考えていました》

 「壕の前で大の字に寝て、艦砲射撃が当たるようにお祈りしておこう」と言って、壕の入り口で寝ているが、艦砲射撃は頭の上を通過してあっちで破裂する音が聞こえるわけ。私たちはどうやって死ぬか分からないねと、敵が来る壕に入った。奥の方には、死んだ兵隊が毛布をかぶせられて細い道の両側にいる。アメリカ(米軍)が通ったら「これも死んでいる」と言ってすぐ出て行くはずだと、死人と一緒に毛布をかぶって寝たら、夜が明けるまで生きていた。

※続きは10月14日付紙面をご覧ください。