<未来に伝える沖縄戦>秋の青空、一転大空襲に 仲村実男さん(81)上


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戦時中、辺土名の山奥での避難生活を振り返る仲村実男さん(右)の話に耳を傾ける、県立辺土名高校3年の(左から)島袋正樹君、宮里政吏君=17日、国頭村の辺土名公民館

 国頭村辺土名に住む仲村実男さん(81)は68年前、国頭国民学校高等科1年(現在の中学1年)に通っていた13歳のときに10・10空襲を体験しました。翌年の1945年3月から大空襲が始まり、4月には本島に米軍が上陸、北部を制圧します。仲村さんは家族と共に7月末まで山奥で避難生活を続けました。飢えに苦しむ死と隣り合わせの毎日でした。仲村さんの戦争体験を県立辺土名高校3年の宮里政吏君(17)、島袋正樹君(18)が聞きました。

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 《41年12月、旧日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。仲村さんの小学校時代は軍国教育一色に染まっていました》

 小学生のころは国民総動員制といって、国民は全員兵隊だと耳にたこができるくらい聞かされた。朝礼では毎朝、宮城(皇居)のある方向、辺戸岬の方を見て最敬礼し、建国体操をしていた。昔はテレビもラジオもないから標語がべたべた張られていて「進め一億火の玉だ」「石油の一滴は血の一滴」などと書かれていた。
 国頭国民学校には当時1200人もの児童生徒がいた。高学年はほとんど授業がなく、食糧増産や避難小屋造り、軍歌の練習や竹やり訓練もしていたね。「ルーズベルト」(米大統領)や「チャーチル」(英首相)に見立てたわら人形を交代に竹やりで突いていた。今からしたら、あんな滑稽なことはない。

 《44年10月10日、13歳の仲村さんは空襲警報発令で山の避難小屋に避難します》

 これが初めての戦争体験だった。雲も風もない、秋晴れのいい天気の朝。8時ごろに警報が発令されたのか、サイレンがわーわーして、逃げるときに西の空から低空で飛行機が飛んで来た。どれが敵でどれが味方か分からなかった。

※続きは10月27日付紙面をご覧ください。