<未来に伝える沖縄戦>戦後も古里に帰れず 前田善輝さん(73)下


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「戦争は絶対やってはいけない。無差別に多くの人が犠牲になるだけだ」と語る前田善輝さん=2012年12月21日、読谷村都屋の自宅

 《保護された住民のほとんどが収容所生活を送る中、前田さんたち家族は収容所には行かされず、戦禍を逃れた宜野座の空き家に身を寄せ、生活を始めました》

 父は防腐剤の散布などを行う衛生課長に米軍から任命されたから収容所に行かされなかった。終戦直後は至る所で不発弾が自然発火していた。私たちが住んでいた家の近くの山も毎日不発弾が燃えて山火事になっていた。
 1946年に、読谷に帰りたいと交渉して、やっと帰ることになった。でも帰ってきても読谷は最初、住む場所が波平と高志保に決められていた。喜名の人であろうが、渡慶次の人であろうが関係なかった。だから家が残っている所に2、3世帯が一緒に住んでいた。私たちもそうだった。小学1年生になろうとした時だった。

※続きは1月13日付紙面をご覧ください。