<未来に伝える沖縄戦>飛んでくる血しぶき 大城実さん(78)上


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大城実さん(左)の戦争体験の話を聞く西原高校の冨里聖花さん(中央)と我如古鈴夏さん=西原町の沖縄キリスト教学院平和研究所

 兼城村波平(現在の糸満市北波平)で生まれた大城実さん(78)は沖縄戦当時10歳で、兼城国民学校に通っていました。米軍の激しい攻撃の中、母と姉の3人で必死で逃げて生き延びました。大城さんの戦争体験を、県立西原高校3年の我如古鈴夏さんと冨里聖花さんが聞きました。

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 国民学校の2年生ごろになると手旗信号をやらされた。イロハニを手旗で書いて、組み合わせればどんなことでも相手に連絡することができた。竹やりの訓練もさせられた。僕はこれが何の役に立つんだろうかと思い、先生に「アメリカ軍は鉄砲を持って降りて来ないんですか」と聞いた。
 先生は「落下傘から降りて来ると(米兵は)しばらくふらふらするから、そのときに突け」と言う。本当かなと思い「アメリカ軍は鉄砲を持ってないんですか。竹やりで突く前に鉄砲で撃たれないですか」とまた聞いた。そうしたら「余計なことを考えるな」とげんこつをくらった。学校で覚えているのはそんなものだ。

 《4月1日の米軍による沖縄本島上陸で戦争は徐々に激しくなりました。大城さんの家族は自然壕に入っていました》

 5月の末ごろ、たまたま壕の外に出ていたら、近くにあった野戦病院から、負傷した兵隊たちが情けない状況で歩いていた。日本という国は兵隊を大事にする国で、軍人は戦えない状況になったら自分で潔く命を絶つものだと教えられていた。二つとも違う。負傷している軍人を大事にしていないし、彼らも潔く死んでいない。今まで考えていた日本という国、軍隊への思いが心の中で消えた。

※続きは6月8日付紙面をご覧ください。